当たり前のように使っている文明の利器たち。

みなさんはそう言われて、何を思い起こしますか…?

 

車もそう、パソコンもそう、家だってそうでしょうか。

 

当たり前に存在しているそれらが、もしもなかったら、今の社会は、どのようになっているのだろう…?なんて想いを馳せるのも、時には悪いことではないですね。

 

例えば、〈電気〉〈お札〉〈文字〉もそうでしょう。

…そのような、人間が生み出した〈文明〉が、もしも、そのままの姿で居続ける「森の妖精」から見たならば、どのように映っているのでしょうか……。

 

…きっと、〈電気〉は太陽の如く燦燦と輝いて見えるのでしょうか。

…〈お札〉は、きっと、ただの紙。こびとには何の価値も見出されることはないのでしょうか。

 

 

「便利になればそれでいい!」というのは、考えものです。特に、時代が大きく変わろうとしている今だからこそ。

先人たちは、〈物理的な豊かさ〉を求めて、一生懸命にカタチあるものを求めて来たのではないかと思います。ありがとうございます。その努力の結晶の上に僕たちは豊かな生活を楽しめています。そこにはたくさんの苦労、犠牲、葛藤があったことでしょう。

そして、そのことも知らず、僕らは「当たり前」にすべてを享受してしまいそうになります。

 

まちは物に溢れ、かつてワンガリ・マータイさんが絶賛した「モッタイナイ精神」は何処へやら。大量生産大量消費の非エコ社会が、日常に広がっています。

 

しかし、一方で、大きな転換への声も、広がっています。

 

再生可能、持続可能なエネルギーの利用。パラダイム・シフト。〈物理的な豊かさ〉から〈心の豊かさ〉へという声は、やはり広がりつつあるのではないかと感ぜられます。

 

 

そして、〈常総100km徒歩の旅〉の考える未来も、もちろん後者。

便利になっていること、その子は大変ありがたいし、謹んで使っていきます。しかし、忘れてはいけないこと。

今に至る過程、多くの人々への感謝の気持ち。

自分さえよければいいという〈こどもオトナ〉がたくさんいてしまっては、社会に未来を見出せる、純粋無垢な〈こども〉は育てることは出来ません。

 

感謝の心、そして、さらなる発展を期して止まない〈心の豊かさ〉こそ、我々が育んでいきたい〈生きる力〉というこができるのです。

 

「ニングル」というのは、アイヌ民族の中に伝わる、ちいさなちいさな「森の妖精」です。ninguru

『北の国から』の作者で知られる倉本聰さんの作品にしばしば登場し、純粋無垢な、しかし、ぶれることのない視点でいつも人間社会に疑問を投げかけてくれる存在ということが出来るでしょう。

 

『ニングルの森』(集英社)は、そんなまっすぐな疑問を僕たちに、まっすぐに問うてきます。

 

「本当に、夜中まで仕事をする必要があるのか…?」

「お札で人をあたためられるのか…?」

「土地に持ち主がいるのか…?」

 

 

社会や、自然、生き方を見つめなおさせてくれる、言葉は発さずとも雄弁な一冊です。

 

最後に、この『ニングルの森』のあとがきを引用して、今回のBookReviwとさせていただきます。

 

時間があったら、どうかこの話を、お子様に声を出して読んでみてあげてください。多分お子様はあなたたちより、もっとニングルに近い次元で、これらの話を理解できると思います。いかに世の中が進歩して我々がそこに巻き込まれようとも、純粋なものたちの心の中には人間本来のDNAがまだしっかりと息づいている筈ですから。

 

 

二〇〇二年初夏 富良野にて  倉本聰